フィットボールが消えた日ーコロナとともに考える


前回の投稿から3ヶ月ほどたってしまった。もちろん新型コロナウィルスのせいである。社会だけでなくスポーツ界も混乱。当然だ。スポーツも社会の構成要素、それも大きな要素。社会の震えはスポーツのそれでもある。スポーツ界も様々な変更を強いられた。
フットボールに関しては、イングランド ・チャンピオンシップの状況が一番気にかかかっていた。19−20シーズン、このブログにしばしば書いてるマルセロ・ビエルサが率いるリーズをずーっと追ってきたからだ。12月のスランプから立ち直り、中断前には首位にリターン。プレミア昇格の可能性がグーンと出てきた。だが、コロナによってレギュレーションの白紙化もありえるという憶測、つまり、今シーズンはなしにしてしまうという案まで出てきて(プレミアでも同じ)、今シーズンの行方が心配で細かいことまでチェックしていたのだ。今シーズン再開問題は今でも未解決。その間に選手の賃金減額や補償問題、6月末の契約の問題等々、いろんな課題が出てきて解決策はいまだ見つかっていないのだ。そんなニュースをBBCsportやフランスのレキップなどをチェックしながら追いかけ、リーズ関連では地元紙Yorkshire Evening Postで追う。こうした情報のチェックにはかなり時間が割かれる。加えて、ユーロ2020 の延期。観戦旅行の80%ほどを準備していたので、ホテルやフライトのキャンセル等々でも慌ただしかった。ぼくにとって今年一番の楽しみだったのに!こうした何やかんやで、2月から4月に入っても、チャンピオンシップ初め様々な欧州フットボール情報のチェックに時間を費やしていたのだ。加えてコロナ関連のニュースもついつい見てしまう。ブログを書く時間がなかった。
といっても、書こうとしなかったわけではない。何度も書き始めたが、考えがまとまらず「保存」を繰り返す。繰り返している内に、事態は次々に動くので書き直す。コロナは考えて書くことにも打撃を与えている。こんなことしていたので、3ヶ月近くも投稿が中断してしまったのだ。短い文章は肌に合わないので、facebookやtwitterはする気がない。「いいね」とか言われてもね〜。SNS的な言葉とイメージの感覚が肌に合わない。年寄りだからでもある。いわばSNS的コミュニケーション弱者なのだ。外出を控えている現在、ますますSNS的世界から置いていかれている感じもしている。
そんな中でフットボールの再開を待っている。
こんな愚痴めいたことを書いても、3ヶ月あまりのコロナに振り回されるフットボール界の情報を追うことで、フットボールの現実もこれまで以上にわかってきた。その活動がどのような構造によって動いているのか、その構造の中で監督や選手はどのような位置を占めているのか等々、グローバルなフットボールの世界の、複雑な構造の一端に触れることができたとも思う。
ともかく、2020 年、フットボールは消えた。すごく寂しいが諦める他はない。定年後、1週間の生活リズムをフットボールでつくってきたが、今は、再開される「いつか」をコロナ予防をしながら待とうと思うようにはなった。社会は、もちろんフットボールも、コロナごときで死ぬようなことはない。プラスに考えれば、コロナのおかげ(?)で金融資本主義に支配された現在のフットボール界の矛盾がはっきりしてきたことは悪くはない。フットボールの原点を考えるきっかけになるかもしれないからだ。

ここからはちょっとしたコロナ禍についての感想。
コロナのせいで、自由に外出できないのはちょっと辛い。今年になって、ようやく年金生活のリズムも、また楽しみも少し頭と体に染み込んできたところだったのに、中断してしまった。もちろん気持ちを入れ替えてはいる。フットボールの消えた日々は寂しいが、一時的なものだと思えばいいのだ。そういう意味では、時間の感覚が少し変わった。辛抱ということではなく、ゆったり構えていこうと思うようになった。物事、あきらめれば、慣れてもくる。これまでにない籠り生活のパターンにも楽しみはある。再開されても、この一部は残るだろう。そんなこと言ってられない人たちも多いと思うので、こんなノーテンキな感想が上から目線だと苛立つ人も少ないかもしれない。でも、これがぼくの正直な気持ちなのだ。
コロナ禍を戦争に例える人がいるが、わからないででもないが、ぼくにはちょっと違和感がある。次元が違うのではないか。ぼくたちの知る近代の戦争は、総動員された国家的国民が別の国民と殺しあうものだった。今回はそうではないのだ。ぼくたちの内側にある他者(新型コロナウィルスだけでなく細菌や他のウィルス)との遭遇とその事態への処方を戦いと思ってしまっては、コロナ禍を見誤るのではないか。これは内的他者との共生の処方の問題ではないのか。この点を指摘している人も少なくない。近代の国民国家が初めて経験する内なる他者との遭遇、そして戸惑い、恐れ。この事態をプラスに考えることも必要だろうと思っている。
こんな風にコロナのことを考えていると、自分がオクレテると感じる。昭和、正確には、第二次大戦後の昭和という時代に精神形成を受けた、言ってみれば日本という独特の国民国家のど真ん中を生きてきた、お気軽な世代だったのだ。(国民国家については西川長夫さんの本 『国民国家論の射程―あるいは“国民”という怪物について』柏書房、『国境の越え方』平凡社、などが参考になる。)
この昭和的な色に染まっている人間が、中身のない自尊心によって政治を仕切っている限り、コロナのような自己内他者と付き合っていけるわけはない。ぼくが何を考えても、この他者に立ち向かえないという諦観もある。でも基本的に楽観的なので(これも昭和オヤジの特色かもしれない)、何とかなるだろうという気持ちはある。それより、コロナ後が大切だろう。昭和的国民国家(現在も続いている)とは違う新しい世界になってほしいと思っている。長い時間かかるだろうが、コロナ禍によって何かが始まると期待したいのだ。それはおそらく「新しい幸せの」カタチかもしれない。そのためには19世紀から続く近代的欲望のカタチを少し変える必要があるだろう。その改革の姿には思い至らないが、とりあえず国民国家=資本主義のイデオロギーである欲望中心主義を弱める方向を探ってみるのもいいだろう。何が私たち個人個人にとって「幸せなのか」を見つけていくことでもあると思う。新しい幸せ像。そんなことができるのは、ぼくの世代も含めて、昭和的なものと距離を置ける若い人だ。
フットボール、それだけでなくスポーツ全般についても同じだろう。新しいスポーツのかたち。オリンピックが延長されたのはよかった。今や中止も選択肢に入っている。いいことだ。「ワンチーム」という国民国家的フィクションにのめり込んでほしくはないのだ。ぼくの理想は、それぞれの競技がオリンピックを目標とするのではなく、クラブによる世界選手権になっていってほしいと思う。フットボールにはその形はすでにある。国家の枠を外し、個人の集合体としての世界各国のクラブが争う世界選手権である。フットボールもW杯ではなく、今あるクラブ選手権を格上げする。他のスポーツも同じだ。多様な出自を持つ選手で構成されるクラブチームの選手権。そのためにはクラブの充実だ。単に選手の問題ではなく、クラブの所属する地域との一体性が重要になるだろう。欧州では、このクラブ理念がはっきりしている。まずは地域、地区からスポーツは始まるのだ。これはこの1年以上、リーズ・ユナイテッドのニュースや記事を読んできて強く感じたことでもある。欧州のクラブ制度は学校クラブを柱とした日本のスポーツとはまったく違う。こうした地域のスポーツクラブの動きは、日本でも少しづつだが芽生えてきているように思う。スポーツ活動は学校の外のクラブでやる。スポーツを教育と規定した、戦前からの精神論的スポーツ論がスポーツの面白さを目に見えないものにしてきた。コロナ禍が、これまでのスポーツの意味を変えるきっかけになってほしいと思う。
オリンピックはもういらない。ぼくはこう考えている。
*写真は木版の版画家黒崎彰さんの作品。京都精華大学で長く指導にあたられた黒崎先生には、ぼくもとてもお世話になった。木版画の伝統を復活させることでイメージの新しい領域を確立したアーティストだった。昔なんかの折にいただいた先生の作品をあしらった一筆箋の表紙写真。ふと取り出したら、コロナの写真にそっくりなのでびっくり。この一筆箋にはJot a thoughtとある。

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