またもやリーズ・ユナイテッドー熱の源泉

 9月末になって、プレミアもギアーが入ってきた(リーグ戦らしくなってきた)が、観客がいないのは何とも。ホームとかアウェイの感じがないのはすごく寂しい。こればかりは諦めるしかないが、中断よりはましだ。イギリスでもコロナは復活、再びロックダウンした地域も少なくない。ファンとしても耐えるしかない。来年3月くらいまでには撤退をしてほしいが。

リーズはそれなりにやっている。シェフィールドとのセカンドハーフはよかった。その前のフラム戦もそうだったが、オートマティズムが少しギクシャクしてたのは、心理的なことが要因ではないだろうか。知っている相手なので少し気を抜いたということか。ただ、キーパー、イラン・メリエが素晴らしかった。特にシェフィールド戦の。名前がイギリス中に(欧州にも)知れ渡ることになった。BBCスポーツは「この男は誰だ」という特集的紹介をしていた。フランスのブルターニュの小さな港町出身。そこに現在は2部にいるがたまに1部に上がる「ロリアン」というクラブがある。メリエはそのクラブ出身である。近くにポンタヴェンという画家ゴーギャンたちが集まった有名な観光地があるのでちょっと寄ったことがあるが、そんな小さな町にそれなりのクラブがあり、そこからトップレベルの選手が出てくるのだから、ヨーロッパのフットボール界は懐が深い。ちなみにアーセナルのゲンドゥージもこのクラブ出身だ。メリエは20才と若いがリーズのファーストチョイス・キーパーになるだろう。インタビューを見ても初々しく性格も素直そうだ。もう数段階アップすれば、ヨリスを脅かすフランス代表のキーパーとなるかもしれない。今週土曜日(もう明日になってしまった)のシティー戦が待ちどうしい。ビエルサとペップ。スペイン以来の対戦だ。

「哲学的」と大袈裟な言葉をタイトルに入れてしまったこのフットボール・ブログだが、だんだんリーズ・ユナイテッドについてのブログになってきた。僕がますますビエルサ・リーズにのめり込んでいってるからだが、理屈を言えば、現在のこのチームに、フットボールの原点、フットボールの哲学の原点のひとつがあると感じるためだ。

フットボールの起源はさまざまで、その歴史を細かく調べたことがないのではっきり言えないが、ただ、現代のフットボールの起源としてもっともありそうな競技(遊び)は、中世から近世にヨーロッパ(特にフランス北部)で行われていたスール(Soule=革焼で作ったボールを意味する)という遊びだったらしい。ある地域の隣接する地区住民たちが、ボールを追いかけ相手のゴールに球を運ぶ、足でも手でも体でも、どこを使ってもよくとにかく相手より先にゴールにボールを運ぶ、まあかなり危険も伴う集団ボール遊びである。この説が本当らしく思えるのは、現在のフットボールの中にもその精神が宿っていると感じられるからだ。何よりも、フットボールは地域(あるいは地区)をベースとしたスポーツだからだ。自分たちの住んでる町と他地区の住民との戦いであることは今でも変わらない。ダービー・マッチはそうした歴史も抱えている。今に言うヴァナキュラーな文化と言えるかもしれない。一種の土着性。それが他のヴァナキュラーナな文化と出会う時、遊びであっても戦闘性を持ち、暴力をも含めた何か大きなエネルギーが生まれる。それがスールと呼ばれた遊びなのではないかと考えている。近代に始まるフットボールは、スールに見られるものを多く引き継いでいると見える。19世紀後半に誕生した各地のフットボール・クブ(FC)には、この伝統が宿っているに違いない。

近代スポーツが教育と政治に吸収されてしまった日本では想像しづらいが、「クラブ」は地域の住民たちが、それも富裕層ではなくむしろ中流の労働者たちが作り上げていった「おらが町のクラブ」なのだ。どこの都市(大小を問わず)のクラブでも、その歴史は、「ある地域のフットボールのクラブ」から始まったことがわる。世界でもっとも古いサッカークラブは、リーズのお隣のシェフィールドFCである。19世紀後半に(多くは80〜90年代)に欧州各地にクラブがつくられ、そこから欧州の外に広がっていった。欧州移民によって南米に伝播されたことはよく知られている。あのマラドーナが活躍したボカ・ジュニオールスはイタリアからの移民によるクラブである。ビエルサの心のクラブ、ニューウェールズ・オールドボーイズはイギリス人によって組織された。こうしたクラブの歴史を見るのも楽しいが、またの機会とすることにして、ともかくフットボールクラブは20世紀前後に世界各地で組織され、現在の世界的スポーツのベースとなったのである。その地域に根ざすクラブ・スピリットというものを今も持ち続けていると感じられるのがリーズなのだ(チーム創設は1919年だが始まりは1904年のリーズ・シティー)。

リーズを見ているとフットボールのオリジナルな感覚を感じるのだ。地域のサポーターの多さ、彼(彼女)たちのチームへの熱情、その熱がサポーターたちの生活を支えていること等々。その熱は自分たちの住む都市リーズの愛着でもあるだろう。エランド・ロードでのホームゲームは、サポーターにたちにとって、フィッシュ&チップスと同じように生きる糧だ。2年前にビエルサが来てから、その熱量は再度、全盛期だったと言われる1990年台後半から今世紀初頭のリーズよりもあがったように感じる。ビエルサの、単なるスポーツゲームとしてのフットボール観を超えたフットボール哲学のためだろう。アマゾン・プライムでの『ホームに連れて行って』には、そうした熱の物語が紡がれていた。また、愛読している(ネット版で)ヨークシャー・イヴニング・ポストのこの夏からの力の入れ方もすごい。単に愛されているクラブというのではない、なんと言ったらよいのか、リーズ・ユナイッテッドはサポーターたちにとって、また都市リーズにとっての血であり肉なのだ。そうした意味での歴史を抱えているのだ。ビエルサによって、フットボールに宿るスールという地域での遊びの精神が21世紀の現代に新しいかたちで現れている。現代にそんな夢は長く続かないだろうとは思う。でも確かに「今」実現されている。今、ビエルサ・リーズに接していることが本当に幸せなのだ。


 

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