オリパラ狂想曲と「個」の自覚


ブログを書く時間がなかなか取れず、投稿も時間があくようになてきた。フットボールだけでなく、ラグビーW杯を始め、観たいスポーツの試合が多いのだ。そうなると、試合後のニュースもチェックしたくなる。自分のやることもあるし、うまく時間が取れない。数行のツイイッターとかだったら毎日でも書けるが、この長めのブログは時間もかかる。こんな言い訳(グチ)はどうでもいいとして、フットボールの季節が本格化し、各国リーグそして来年のユーロの予選もいよいよ熱を帯びてくる、ブログを少し犠牲にしないといけなくなるのだ。
ブログを書かなかった1ヶ月あまり、気になっていたのは来年のオリパラをひかえてのメディア。すでにお祭り騒ぎし始めていることだ。前回の東京オリンピックに熱狂したぼくなんかには、どこか胡散臭さを感じてしまう。何よりも、全てが「日本頑張れ!という」日本美化運動(ナショナリズム)に向かっている気がするからだ。2020のオリパラは「日本の心や社会の素晴らしさを世界に示す」ことが目的であるかのように。そのために「お・も・て・な・し」。ぼくのようなねじれた者には少し気持ち悪い。来年のオリンピックを外国でテレビ観戦できたら少しは素直になれるかもしれない。もちろん外国でも日本とそれほど変わらず、そのメディアは自国のチームの話題が多いのは同じだろう。
ただ、フットボールではなくラグビーのW杯をフランスのパリでテレビ観戦した時(ほぼ全試合を見てしまった)、メディアやラグビーファンの反応が少し違うことに気づいた。派手な見出しや自国チームへの応援記事等々は同じだが、リアリズムに徹した試合レポート、さらに広い政治・文化的視点からの各国ラグビーの分析記事などがきちっとあったことだ。2011年のニュージーランドでのラグビーW杯の時である。フランスが奇跡的に決勝まで行き着いた大会だったので、フランス国民は熱狂していたし、メディアの熱の入れ方も大変だったが、といって、日本のメディアの報道の仕方とはどこか違ったのだ。まあ、ラグビーを知っているということだし、素人の芸能人が中継に出てくることもない。
オリンピックやメジャー・スポーツのW杯は、どこの国でもお祭りだ。でも、スポーツのお祭りだということは誰もがわかっている、そんな感じだ。熱狂の中にも冷静さがあるということだ。来年のオリパラのメディア協奏曲は、日本という国家のためのイケイケ感が強すぎる。これこそスポーツへの政治介入ではないのかとも思う。
オリンピックのような巨大国家プロジェクトは、クーベルタン男爵の理想とは違い、近代国民国家を強化する文化的・精神的的装置となっていった。その頂点であり終わりの始まりでもあったのが1936年のベルリンである。200メートル平泳ぎで優勝した「前畑ガンバレ」の前畑選手は感動的だが、その感動が国民一丸となった帝国主義的気分を醸成したことも間違いないのだ。今回はそんなことにならないように、スポーツへの日本の成熟度を見せてほしいものだ。
政治のスポーツへの介入はいけないというが、オリンピックのような巨大な大会は、初めから「政治的」なのだ。それが近代の国民国家ということである。気づいている人も少なくない。その国民国家は今や大きな曲がり角に来ている。もっと別の表現があってもいいのではないかと考えるが、さしあたりない。フットボールのCLのようなクラブ中心の世界的大会が望ましいと考える人もいるだろうが、21世紀のフットボール、リードする5大リーグでは、仕切るのは国民国家の次に誕生した金融資本主義という幻想の経済システムだ。PSGのネオマールへのネット裏の過激なサポーターの垂れ幕は、ネイマールと彼を支配している金融資本主義システムへの抗議なのだ。国民国家主義と金融資本主義という、どちらがいいのかの問題ではない、それぞれ別の意味で残酷なシステム=イデオロギーだ。極端に言えば、帝国主義と同じように、人間の「病」のシステムだとも思う。現実には、この二つのシステムはまだ共存している。そこからの別の道はまだはっきりと見えていない。フットボール世界もまた、この二つのイデオロギーのせめぎあいの中で動いている。ある意味で残酷な場所である。ただ、フットボーラーは(他の競技でもだが)この先の見えない絶望的な世界をプレーによって切り開くことができる。何に向かって?それはわからない。ただ、システムに縛られた(ゲーム自体も)世界で、この絶望をを切り開くのが「私」としての選手だ。フットボールで言えば、「私という個」の信じがたいシュート、ドリブル、タックル、そうした一つ一つのプレーが、先の見えない現実を切り開き、現実の「病」から「希望」へと導いてくれると思っている。
書いていることが妄想化してきたが、もう少しだけ。ともかく、「世界一」とか「日本は素晴らしい」とか、そんなフレーズは信じるなということだ。世界はシステムではなく、人間の「個」で成り立っているはずだ。その「個」を組織化しお金に変えることが現在のフットボールの世界だとしても、「個」がなければ何も残らないし希望もない。フットボールは、そしてスポーツは「個」にとってまだ希望がある領域だと思っている。現在の世界システムによって無慈悲なことになることも少なくないが(前に書いたアフリカの若者たちが典型だが)、ぼくはその「個」にわずかな希望を持ちたいのだ。その希望を伝えるのがメディアの役割ではないのか。選手も支えるサポーターも、メディアの画一的な論調に違和感を持った方がいいと思う。そんな理屈っぽいことを考えたら、スポーツの感動はどこかに行ってしまう、スポーツに理屈はいらない、という人も多いだろう。でも理屈がなくなってしまえば、「感動」だけが大切だとしたら、たちまちスポーツは別のものに巻き込まれていく。スポーツの歴史がそれを語っている。何か漠然とした雰囲気に巻き込まれないために、スポーツは、国家のためでもお金のため(これは必要だが)でもなく、「個」としての人間が集まり擬似的戦いをする世界に「開かれた場」だ。選手も見る側も、とりわけメディアは、深く心に留めておいてもいいのではないか。海外でプレーする日本のサッカー選手は、「個」を確立する恵まれた環境にいる。多様な出自の選手たちと争うクラブでプレーすることは、必然的に「個」の自覚が必要になるだろう。フットボールが国のためでもお金だけのためでもない場だと知ることは素晴らしいことだと思う。それに比べれば、日本代表やビッグクラブだけが目標だなんて小さな話だ。後からついてくることだ。





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