サッカーと「帝国主義」

1週間ほど留守をしていたせいで、ブログを書く時間がなかった。その間に、コパはブラジルの優勝で終わり、女子W杯はアメリカ。そして、AFCON(アフリカネーションズ・カップ)はノックアウト・ラウンドに。それぞれで「その後のリアクション」報道を流し続けている。日本ではレアル久保のことが相変わらず。どうしてこうも話題にするのか。ぼくには理解不能だ。コパのメッシ騒動。これもフットボール・ジャーナリズムのためのもので、ぼくにはどうでもいい。海外にも芸能界的ジャーナリズムはあるのだ。この1週間の話題で一番印象に残ったのは、AFCONでのマダガスカルの躍進だ。感激した。
と、日記のように書き出したが、今回のテーマは大げさなタイトルを付けてみた。サッカー選手がよく使う、それだけではなく、日本で多くの人が使う「世界」あるいは「世界的」という言葉について少し考えるために。「世界へ挑戦」はサッカー選手が海外に移籍時によく使われる言葉だが、他のジャンルでもよくこのフレーズを聞く。ある有名な現代アートの作家は「ぼくは世界で戦っている」なんて言っていた。日本のメディアは、とりわけ「世界」が好きだ。数えればきりがない。昨今の久保フィーバーの言説もそんな調子にあふれている。でも、「世界」とか「世界的」って何なんだろう。もちろん、英語でも仏語でも使われている。ただ、「ザ・ワールド」「ル・モンド」(高級日刊紙の名前にもなっている)での「世界」と、日本での「世界」の意味が微妙なところでずれていると感じる。
例えば、サッカー選手が「世界に挑戦したい」というその世界は、結局、欧州の5大リーグ+数リーグのことで、タイのクラブに移籍することは「世界挑戦」とならないだろう。日本人にとって「世界」とは(もちろん、国連的な「世界」を意味することもあるが)、西洋である場合が多い。サッカーはほとんどそれだ。地球上で一番行われているスポーツのことなのに。
「世界」という言葉に含まれる意味は国や地域で違うだろう。MLBは年間の王者決定戦に「ワールド・シリーズ」と「世界」を使っているが、これも特殊だ。アメリカ政治の伝統的な孤立主義(モンロー主義)からきているのだろう(その意味で、トランプは極端な伝統主義者である。アメリカの白人層に浸透していないフットボールに興味がないのではないか)。「世界」の含意は世界中でいろいろあるが、日本は極端だ。その原因は何なのだろう。どうしてこんなにも「世界」と「世界的」が好きなのだろう。この極端な「世界」という言葉(表向きの、あるいは深いところでの)を反省しないかぎり、サッカー界はグローバルな視野を持てないだろうし、サッカーがフットボールにならないのではないか。
「世界」好きの要因のひとつに、おそらく明治以来志向した国家像の問題があるのではないかと考えている。こんな大きな問題がサッカーとどんな関係があるのかと考える人もいるが、フットボールと政治史は深い関係があるのだ。歴史を振り返ればすぐに気がつくことだが、近代日本国家は西洋の「帝国主義」の概念とシステムをそのまま抱え込み近代国家となった。その帝国主義は世界の覇権を争うゲームだ。そこで日本は「アジアの盟主」としての日本帝国、西洋の楔からの解放する「神の国」といった夢を描く。この夢は日清日露戦争の勝利で実現できるかと夢想した。その時、世界での「ジャパンNO1」の欲望が醸成されたのではないか。政治だけでなく、日本国民の心の中にも。
しかし、第二次大戦での惨めな敗北。この敗北を深く反省しないままま、民主国家としての日本国民の潜在意識に、「ジャパンNO1」の欲望(帝国主義的な欲望だ)は潜み続けることになったのではないか。その欲望は戦後の経済的豊かさによって一時実現できたかのように思えたが(ただし、日本経済をジャパンNO1としたのはアメリカだったことを忘れてはならない)、束の間のことで、IT時代とともに経済は下降線をたどる。その時、再び精神的な(というより気分の)「ジャパンNO1」の、とまでは言わなくても、「西洋と並び立つ優れた日本」という亡霊が夢として復活してきたように思う。国家の力ではなく、「心」の中での日本世界一願望、言ってみれば「心の帝国主義」である。平成の終わりころから、この傾向はますます強くなっている感じがする。世界で一番の国。サッカーもこの幻想を追っている、というより、幻想を作り出している。
サッカー選手が欧州のビッグスターとして活躍してほしいというのは、この国に住んでいるフットボールファンは誰も持っている。それはいい。これまでそんな選手はいないのだから。でも、それを、詳細な分析もなくサッカー・ジャーナリズム は煽り立てる。なんか、第二次大戦中の戦果報道のようだ。
実際のサッカー選手はずっと冷静なのではないか。ただ、メディアに影響されやすい国だ。それが心配だ。フットボールは、グローバルという意味で「世界的」だ。政治経済的な複雑さも抱えているが、フットボールが好きなら、世界のいろんな国でプレーできる。年取ったぼくの希望は、サッカー選手が、日本を飛び出し世界そのものの現実を感じてほしいことだ。その兆候はすでにある。6月10日ブログで書いたように、現在、多くのサッカー選手が世界各国でプレーしている。これが希望だ。若い選手が、フットボールのために世界を渡り歩く。それが広がっていけば、日本も普通のフットボールの国になることができるだろう。

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